猪狩怜恩(れおん)先生の物語:高校不登校、そして不登塾。逆転の大学推薦入試への道
もくじ
猪狩怜恩(れおん)先生の物語:高校不登校、そして不登塾。逆転の大学推薦入試への道
学習支援塾ビーンズの猪狩怜恩(いがりれおん)です。ビーンズ内では、”れおん”と呼ばれています。
本記事では、ビーンズ元生徒であり、現講師でもある私が、不登校からビーンズの塾生となり、そして大学合格し、ビーンズで活躍するまでのお話をしたいと思います。
これを読んでくれた不登校当事者や、その保護者さまに、「こんな道もあるのか……。 なんだかやっていけそうかも!」と思ってもらえるとうれしいです。
基本プロフィール
■愛称
れおん先生(”ガリレオ”って愛称を流行らせようとしています )■役職
PR企画室長→事務局長(3代目)■担当科目
国語・自己分析・面接対策■科目勉強以外
自己分析指導・面接指導・スライド作成■大学/学部
武蔵野大学 人間科学部 社会福祉学科■趣味
音楽を聴くこと(Vaundy、Saucy dog、クリープハイプ、マカロニえんぴつ)、下北沢で古着を買うこと、ゲーム、アニメ■経歴
ビーンズ入塾後、高校中退を経て高卒認定資格を取り、武蔵野大学へ入学。大学では”社会福祉学”、特に対人援助に関して学ぶ。
ビーンズのインターン参加後、柔らかい物腰、圧倒的なサブカル知識と好奇心を持ち、「信頼関係構築のエキスパート」として多くの生徒の授業を担当。
2022年春からビーンズのPR(広報)チームで学生最高責任者である「PR企画室長」に就任。
画像編集からYoutube動画作成まで担当し、その技法を多くの後輩たちに引き継ぐ。
2023年に事務局長に就任。事務局のタスクを新人インターンに分かりやすく伝えるべく奔走中。
中学・高校不登校からの引きこもり。ゲームしても気は晴れない
学習支援塾ビーンズと出会うことになる2019年、当時の私は高校3年生でした。
私、実は中学時代3年間もボチボチ不登校だったのですが、都立高校であるチャレンジスクールに合格。
高校では友達と青春を謳歌していました。
そのさなか、高校3年生になって”それ”は起きました。
最初はなんだか気分が落ち込んで、一日だけ学校をサボるつもりで休んだんだと思います。
ところが、ズル休みしている感覚からか、あまり気分は休まりませんでした。
その後も、気分が落ち込むと学校を休むようになり、次第に毎日登校している友達へ負い目を感じるようになっていきました。
友達が学校へ行って頑張っている間、自分はサボって楽をしている……。
そんな自分に対して、友達は心配し、「調子はどう?」「大丈夫?」と連絡をしてくれました。
しかし、友達に対して、そんな気を遣わせていることに対しても申し訳なくなり、だんだんと友達へ合わせる顔がなくなりました。
最初のころの一日だけズル休みのころの気楽さはなくなり、とにかく落ち込む日々。
そこから完全に学校に通えなくなり、陰鬱とした引きこもり生活を送っていくことになります。
起床は14時。そこからお昼ご飯を食べ、19時に夕飯を食べ、29時に寝る。
それ以外はずっと部屋にこもってゲームをしている……これが当時の私の生活でした。
では、ゲームをしていれば心が晴れるかというと、そんなことはないのです。
ゲームをしても楽しくない。なぜなら「本当はゲームをやってちゃいけないんだよなぁ」という内なる声が常に聞こえるからです。
では、なぜゲームをするかというと、家では寝る食べることが全てで、他にすることがゲームしかないからです。
ゆえにゲームをするわけですが、そのゲームも「世界ランカーになろう!」とかは思えず、それどころかその瞬間の楽しみでさえも「今、やっているゲームっていけないことなんだよな……」という想いをもっていました。
本来、ゲームは息抜きです。。リフレッシュの時間です。
グーッと集中してプレイし、スッキリします。
そして次の事(学校の課題や、課外活動)に挑戦します。
しかし当時は、
「今、やっているゲームっていけないことなんだよな……」
「本当は(科目)勉強しなきゃいけないんだよなぁ……」
という想いが常にあり、ゲームをやれどもやれどもスッキリしません。
スッキリしないけど、他に行動の選択肢がない(ように思えた)のでゲームを続けていました。
そして、いつまで経ってもリフレッシュせず、むしろ自己肯定感が低くなるという、物凄い悪循環にハマっていました。
そんな生活をしていれば、より一層気分は落ち込み、自信のあった体力は衰え、外に出ることもなくなっていきました。
この時は、とてもしんどくて「今すぐにでも消えてなくなりたい。でも自分で死ぬ勇気はないから、だれかの身代わりになって死にたい」という思いが頭の中をぐるぐると駆け巡っていたことを思い出します。
ビーンズとの出会い
そんなある日、母親がビーンズを見つけてきました。
当時は塾に行くつもりなどなく、ましてや通い続ける気力も体力もなかったのですが、もはや親の提案を断ることすら億劫になっており、なんとなく「行ってもいいよ」と言って、ビーンズに行くことになりました。
思えば、自分がこういう状態になるまで、親(特に母親)はずっと待っていたのかもしれません。
話題はそれますが、今、ビーンズの講師として生徒たちをサポートする立場になってみると、保護者さまの気持ちが少しずつ分かってくるようになりました。
子どもが不登校になって家で真っ青な顔をしてゲームをしている。
子どもの体力が日に日に落ちていく……。
とてもじゃないですけど、尋常な精神状態では見ていられません。自分が講師となって生徒対応をして、そのことがようやっと(少し)分かってきました。
あの当時、親からはいろいろと言われましたし、一通りの衝突は経験しました。(グラスは割ってない……はず。)
それでも親なりにグーッと我慢して自分と向き合ってくれたんだなぁと思います。
私が勉強を嫌いになった理由
ビーンズの体験授業での印象は「あ、ビーンズでは勉強しなくていいのかぁ」でした。
当時の私の心理状態をお伝えすると、
「学生の本分は勉強だ。だから勉強しなきゃ」と強く認識していました。
同時に「だけど絶対に勉強したくない」という葛藤がありました。
私が勉強を嫌いになり始めたのは小学校高学年からです。
最初にぶち当たった関門は宿題でした。
それまで(つまり小学校低学年まで)、私は予習復習しなくても授業内容を理解できていました。
自分で言うのもおかしいですが、ある種の地頭は良かったと思います (笑)
そんな私にとって、宿題はやってもやらなくてもいいものという認識でした。
かつ宿題をやってこなくても、そこまで追及されません。
そして、私の中の自己像は「宿題をやってなくとも、優等生」というものでした。
ところが、小学生高学年になると宿題をやってこないことへの締め付けが厳しくなってきます。
まず、教師が宿題をやってこないと厳しく追及してくるようになりました。教師の連絡は親にもいきます。
それまで親は宿題や科目勉強に対してそこまでこだわりがなく「勉強は、まぁボチボチやれば……」という感じでした。
そんな親も教師から連絡がくると焦りだします。(当然です。)
同時に学校の宿題の量が多くなります。
私が特に苦手だったのが漢字の反復練習や算数のドリルで基礎問題を解くことでした。
難しい問題1問を時間をかけて解くのは頑張れるのですが、明らかに暗算できる基礎問題を延々やって、しかもノートを提出してチェックされることに小学生の自分は耐えられなかったのです。
宿題をやらないと教師と叱られます。
そして後から親からも叱られます。
……このことを繰り返しているうちに「勉強とはツラく苦しいもの」という考えがばっちりインストールされてしまったのです。(今思えば、ほんともったいないですよね!)
当時は上記の「勉強=ツラく苦しいもの」というバイアスがあったので、ビーンズでいきなり科目勉強に入らなかったことが、ビーンズを続けられた要因だと思っています。
いきなり科目勉強を始めていたら、ビーンズの先生たちと信頼関係を築くまでにビーンズに通うのをやめてしまっていたと思うので……。
雑学やマメ知識、ビーンズでなら業務に使う知識の物覚えは、(自分で言うのもなんですが)かなりいい方だと思っています。
ちょっとドヤしたいので(笑)、一例だけあげると、中学時代、たまたま横田基地に住んでいたアメリカ人とゲーム仲間になりました。
(冒頭にも書きましたが、中学生時代もボチボチ不登校でしたので当然、英語の勉強もしていません。)しかし、彼とのやりとりはふつうに英語でした。すらすらと英語を覚えていったことを記憶しています。
……ということは、私は英語そのものが嫌いだったのではなく、学校で教わる「この知識、何のため……?」という英語が嫌いだったということです。
この記事をご覧になっている方の中にもいらっしゃると思うのですが、「この知識を何に使うの?」というクエスチョンが頭に浮かぶと、勉強する気が失せることってありますよね。
中学不登校時には、親に「なんで勉強するの?」とよく聞いていました。
そこで、親が「いい大学行くため」って答えると、「あーん?」となり、納得がいかないのです 笑。
あ。もしかしたら、今、大学の授業ではどうなのか?と疑問に思った方もいらっしゃるかもしれません。
私が入学した学部では「社会福祉」という実学を学んでいます。
私の生活はもとより、社会の人々の生活と密接にかかわり合っているという実感があるので、そこまで苦労はしていないです。(今のところ大学の授業はフル出席、成績も悪くないですよ! 笑)
ビーンズでの大学受験 できない……!編
大学合格までの流れを書くと、おおまかにこういう感じです。
講師との信頼関係構築期
⇓
大学受験するって決めたけど…頑張れない
⇓
3年卒業が無理と分かり「不登塾」になる
⇓
(とりあえず)高卒認定試験を受け、合格
⇓
進路を考えてダウン。2回目の「不登塾」
⇓
「受験は祭」ムーブメントがおきる
⇓
同期達と「青春経験」
⇓
進路を決める
信頼関係構築期
講師との信頼関係構築は、ここで説明する必要もないでしょう。ビーンズでは「信頼関係構築期」と呼んでいます。
とにかくビーンズでは。「あ、ビーンズでは何話してもいいんだ」という気持ちになれたことが、私がビーンズに通い続けられた要因でした。
とはいえ、一回二回の会話で「この講師は信用できる!」なんて思えないです。
今、私が講師としてやっている中でもそんなことは物理的に不可能だとあらためて思います。
ですから、この信頼関係を築くことを焦らずに時間をかけてくれたことが有難かったなと思います。
講師の立場になったから分かるんですけど、生徒との会話で進展がないと焦るんですよね。
この場合、進展というのは進路決めや、学校決めのことです。
なんといってもビーンズには進路決めまでのタイムリミットが刻々と迫っている生徒たちがたくさんやってきます。
しかも週1回90分の関わりしかない生徒もいるので、その生徒と会えるのは来週になってしまう。
それが4回続くともう次の月になってしまう……。
だから、真面目な講師ほど「今週の授業の中で少しでも進路について方向性を決めたい」という気持ちが出てきます。これは仕方ないことだと思うのです。
ただ、自分が講師側になって本当に肚落ちしたんですけど、その焦りを講師が生徒へ見せてはいけないなと思います。
なぜなら、生徒は講師側の焦りを感じた途端、緊張で固まってしまい、今までの関係性が台無しになってしまうことがあるからです。
ここをグッと我慢して信頼関係を築いていけるか……。講師も正念場です。
グルグル期 大学受験を決めたけど……頑張れない!
さて、私の場合、進路については割と早期に決まりました。
「大学受験して、進学する」です。
当時の私の気持ちとしては……
・高校不登校のまま社会に出るのは、怖すぎる
・社会に出たくない。モラトリアムを引き延ばしたい
・大学進学すれば、ワンチャン何かやりたいことが見つかるかも!
大学進学を決めたのは「社会は怖い。だから大学に行きたい」という「恐怖と不安」からでした。
そして、ビーンズでは「恐怖と不安では、人は頑張れない」(正確に言うと「長期的には頑張れない」)と言われています。
まさにその通りで、大学進学を決めたものの、今度は「頑張る!」ことを決められない状況に陥りました。
それは、「大学に行かないと生きられない」という「恐怖と不安」が常に頭にあったからです。
講師になった今、好きで教えている現代文・社説要約も、当時は恐怖でした。
なぜなら、現代文には必ず現代社会の(割とシリアスな)社会情勢の内容が入ってくるからです。
当時、ビーンズで同期となる他の生徒(今は大学生)たちと進路について話していた時、出てきたのが
大学行かない> 就職できない> ホームレスになる> 死亡
というストーリーでした。
今思うと、「社会情勢が厳しさを増す中、確かに、その可能性がないわけじゃないのですが、ちょっと極端なストーリーじゃないか……」と感じるのですが、当時の私も含めた同期たちにとっては、おちゃらけで言ったわけではないというか、「充分ありうるよな…」と全員が感じていたように思います。
それじゃ、進路を決めて頑張ればいいじゃないか……と思われるかもしれません。
しかし、まず、やりたいことがなかったから、進路を決められないのです。
進路を決められないと、大学名、学部も決められません。
フワッと「楽そうで、広く浅く学べる大学・学部に行きたいな~」と思っていましたが、そんなフワッとした想いでは、志望校も決められません。
一方、「とりあえず科目勉強して、とりあえず学力を上げて、一般受験で入れる総合大学に行く」という選択肢もとれませんでした。
元々「勉強=ツラく苦しいもの」と感じている私が、大学も学部も選んでない中で、「恐怖と不安」だけで勉強を頑張れるほど、当時の私の心は強くありません……。
大学を一度選んだら、やめられないし、転校もむずかしい……。高校生でも流石にそのことくらいは分かります。
そして大学を選ぶ手がかりは、自分の「やりたいこと」「学びたいこと」です。
その、自分の「やりたいこと」「学びたいこと」を探す手がかりは、高校生だった私の思考・高校生の視界からは、殆ど見えてきません。
こうして、大学受験を決めつつ、進路選びもできず、受験勉強も手がつかない……という奇妙な(かつ、ビーンズではあるあるの)状況が始まります。
1回目の不登塾
そして、受験勉強よりも大変なことが起きました。高校3年の夏に、高校の単位が足りず、3年での卒業が難しいことが判明したのです……!
まぁ、高校は相変わらず不登校だったので当然なのですが、当時はめちゃくちゃショックでしたね。
それをきっかけに、ビーンズも「不登塾」※になりました。
※なお、”不登塾”はビーンズ生徒のあるあるの状況です。
不登塾の一事例は「『バカラ事件』ビーンズ高校受験生の「逆境⇒努力⇒成功のストーリー」」をご覧ください!
その理由は、当時の私の進路観です。
当時の私の進路観は、「令和なのに昭和的な」価値観でガチガチに凝り固まっていたのです。
例えば……
<「令和なのに昭和的」だった価値観 >
・大学には行かなければならない(そんなことないんですけど)
・大学には現役で行かなければならない(そんなこと……ないですね)
・大学は4年で卒業しなければならない(留年した塾長も、1年休学したのむしゅん先生も楽しそうに生きています)
・大学を卒業したら大手に就職しなければならない。
・大手は、基本ブラックなので仕事はツラい。下手すると過労死
・しかし、大手をやめてしまうと、よりツラい人生が待っている
・人生の勝ち組は不労所得! 株や投資信託はリスクがあるから、やっぱり土地だね!
やー、今、改めて文字化して読んでみると恥ずかしいですね……笑
当時の私と会えるのであれば、横に座りつつ、以下のようなことを話してあげたいですね。
・「まぁ、そういうこともあるけど、あまりに例外が多すぎることを前提にしているなー」
・「浪人して大学入ったけど今は幸せだよー」
・「2浪の上に留年した長澤塾長も、多浪の人達も楽しそうだよー」
・「優秀そうな大人たちも(実は)いろいろ七転八倒してるし、僕がちょっと迷うくらい全然OK」
こんな言葉たちが頭をよぎります。
でも、当時は、そんなこと一切思わなかったですね。
もうほんとに一切思えませんでした。
頭の中で、「こう(令和なのに昭和的な価値観)でなければ社会の中でやっていけない。餓死しちゃうのだ」などと怖い妄想を膨らませながら、その妄想をテコに頑張れるわけではなく、ただただ震えていました。
自分で言うのもなんですが、ほんとうにめんどくさいなと……。
そして、3年卒業ができない=「令和なのに昭和的な」価値観的に当然ダメなわけですから、自信を失うわけです。「もう、ダメだ」と。
そうして、ビーンズに行けないようになりました。ビーンズの風物詩「不登塾」の季節に、私も突入したわけです。
「不登塾」は夏から秋にかけて続きました。
親のサポートもあって、ビーンズにはなんとかつながり続けることができました。
しかし、相変わらず勉強はやりません。3年卒業の代わりにチャレンジした高卒認定試験も、結局まともに勉強をせずにチャレンジしてしまいました。
「青春経験」と受験
元々、在籍していた高校で取得していた単位のおかげで受験科目が少なかったことも幸いし、(運もよかったのかもですが)高卒認定試験に合格することができました。
が、「高卒認定はとったものの…何をしようか」という状態です。ホッとはしましたが、何かをやり遂げた感はあまりありませんでした。
とはいえ「これで、いつでも大学へ行ける!」と思い、ここから大学現役合格を目指す気持ちが芽生えてきました。
ここまでの不登塾の間も、塾長の長澤先生から何度も連絡をもらい、やり取りを重ねたことで、このタイミングで授業を再開。
同期達と一緒に、進路についてあらためて考えていくことになります。
とはいえ、科目勉強には、依然としてめちゃくちゃアレルギーがあったので、真剣に勉強する……というより、塾で知り合った同期達とファミレスで趣味の話をしたりする時間の方が覚えてます。
2回目の不登塾から「受験は祭」、「放言大会」
とはいえ、進路を考え、決めなきゃいけないタイムリミットが刻一刻と迫ってきます。
これが、もう、本当にツラい。進路を決めること、受験校を決めることは「自分事」マックスです。
一日考えると、気分が落ち込み、次の日ダウンしてしまう……みたいなことが何度もありました。ここで二度目の不登塾に突入。
このころ、同期達も続々と不登塾になるという……地獄の様相を呈していました。
その一方で、ビーンズでは新しいムーブメントが生まれていました。それは「受験は祭」というものです。
お祭りのきっかけは、「進路相談会」で、皆と一緒に進路を考えたことでした。
その後、塾で出来た友達が日本史と古典を学ぶ「国史研究会」を発足させて、延々と楠木正成について調べていたり……
「英単語をスクワットしながら覚える会」を発足したり……
皆でワイワイやっていると、受験という現実は変わらないけど、捉え方がいい方向に変わったんですね。
そして、進路についての「放言会」が始まりました。ビーンズのいう「放言」とは、真面目な話を無責任に、語るということです。
元々、ビーンズでは、(写真にあるような)オリジナルのワークシートによる自己分析が主流だったのですが、
「いや……自分のこと考えるって、自分事だから、しんどい」ということで、このころからビーンズでは「他人事」というキーワードが意識されだしました。
当初「僕だけが、僕のみが、自分の進路を考えるのがこんなにツラいんだ」と思っていたのですが、よくよく周りに聞いてみると、みんなツラいと。
※なお、この記事読むと、若者世代ツラいみたいですね……そりゃそうよね 笑
だったら、「他人事」で他人の進路を考えよう。仲間=他人の進路なら、楽しく考えられると。
ということで、まずは「他人事」で周りの仲間の進路について大討論会が始まりました。
「他人事×放言」の組み合わせで、『無責任→有責任のスモールステップ』が完成した瞬間です。
そして、この大討論会が、今に続く受験期の生徒の進路相談会・進路相談グループ授業の起源ともなりました。
青春を取り戻せ!
不登塾のときは、布団から出ることもできなかった私ですが、「受験は祭」の空気ができてからは、授業以外でも、ビーンズにずっと居続けるようになりました。
単純に同期や後輩たちとわちゃわちゃする時間も楽しかったですし、長澤先生たちとおしゃべりしたりと、色々していました。
そうこうするうちに、ビーンズに「青春ラボ」(生徒の居場所)という概念がうまれてきました。
私のように授業以外でも教室に居座る(笑)生徒たちが新しい文化を生み出していったのです。
キーワードは青春。「失った青春を取り返せ!」とばかりにスイカ割り、そうめん、BBQ! と生徒主催、生徒発の企画が連発されるようになりました。
切腹会
当然、企画が当たり前になると、塾内で知り合いが増えます。
相手も自分と同じく「悩める10代」。だからこそ、打ち解けるのも早い。中には”友達”と呼べる相手もでてきます。
そうすると……
「もっと互いのホンネを語りたいよね……」
「もっと互いに深い話をしたいよね……」
という欲求も自然に生まれてきます。塾での知り合い以上に、「友達」になっているわけですから、当然ですよね。
そこで挙行されたのが「肚割り会(切腹会)」です。
「ドロドロしたホンネを、素面(シラフ)で話せるか!」と、ビーンズの同期たちと連れだって、ビーンズを離れ、カラオケに行き
「人生ってつらいよね」「社会に出るの怖いよね」
「進路決めるのしんどいよね」
「塚﨑先生は楽しそうに働いているけど、あれはきっと生徒向けのウソの顔だよね……」
などとウダウダ言い合う。
その挙句、その様子を動画で撮影し、代表の塚﨑さんへ送るという謎ムーブをかますという……今考えると、まったく生産性のない時間だったのですが 笑
でも「自分の進路を考えることすら怖い」という、あの時の自分にとって「友達と自分たちの進路についてベラベラ放言し続けること」は、何かの意味はあったのではないかなーと思います。
大人たちと会う
ビーンズは色んな大人たちもやってきます。
ビーンズに居座り続けると、必然、そういう大人たちと会うことになります。
今、生徒たちを教える立場になって思うのですが、当時の私が「男子高校生」だったことが、いろいろ有利だった面は否めないと思います。やはり大人と会うとなると夜になることが多いので……
とはいえ、年齢・性別に関わらず、こういう大人との出会いは、安定期後半以降 の生徒には刺さると思うので、生徒たちに勧めていきたいなぁと。
出会いの場が、教室からオンラインにも広がったことで、性別年齢問わず参加しやすくなるかなーと思っています。
現に、IBMさんとの企画や、
弁護士、戦略コンサルタント、ベンチャーといった戦力ムキムキ(なんだけど、めちゃくちゃお茶目な)お兄さんお姉さんたちと色々やってるので、もっと生徒とわちゃわちゃ出来たらなーと思います。
ビーンズ大学推薦入試対策
早い段階から、長澤先生から推薦入試の一形態である「総合型選抜をやろう」という戦略は伝えられていました。
「自分には科目勉強というものがあってないもんなぁ……」ということは漠然と分かっていましたし、これまで経験してきたビーンズの授業(みんなでワイワイした雰囲気)を通して、総合型選抜の方が自分に合っていると納得していました。
さらには、「チャレンジスクール入試で作文と面接で使ったしなぁ、やることは変わらないか!」といった自信もあったように思います。
大学推薦入試 総合型選抜・ビーンズでガクチカ
そして、総合型選抜で受験すると決まってからは、「ガクチカ」作りのためにビーンズで活動するようになります。
私が主にやった活動は、エンカレというゼミ形式の授業の手伝いでした。
「面接のコツエンカレ」、「ビブリオバトル」「国語力エンカレ」、「作文ゼミ」、「高校大学モテ講座」……
これらエンカレの司会進行を務めたり、企画段階から携わったりしました。
そうして企画してきたイベントのなかで、特に印象に残っている企画は「国語力エンカレ」ですね。はじめて自分がリーダーとなって(もちろん長澤塾長が伴走してくれていたんですけど...笑)、ビーンズが大切にしている「国語力」をいかにして生徒に伝えていくか頭を悩ませました。(まぁ、当時は自分も生徒なのですが……)
段ボールに新聞の社説の文章を貼り付け、文節ごとにばらばらにして生徒にパズル感覚でやってもらったり……生徒がどれだけ楽しんで学べる企画になるかを特に意識していたことを覚えています。
そして自分が企画したイベントがウケて、褒められたことが当時の自分にとって何よりも嬉しかったことを覚えています。
そして、イベントのための資料作成から派生して……ビーンズ全体で使われる「デザインのコツマニュアル」を作ったり、イベントの進行スライドの作成をしたりと、「イベント×デザイン」について深掘りをするようになりました。
ここまで読まれた方の中には、
「きっと、れおんは自信とセンスにあふれる人だったんだろうな」
「れおんは、特別なんだろうな……」
と思ってしまった人もいるかと思います。
そういった方には、ちゃんと前半読みました?とツッコミをいれておきますね(笑)
もう一つ大事なことをお伝えすると…… 私は元々、
「他人から期待されたくない」
「期待されて失敗したくない」
という気持ちが強くありました。この気持ち、今ビーンズに来ている「悩める10代」、そしてインターン生たちの多くも共有できるんじゃないかなと思っています。
そんな私がなぜ、ビーンズで企画立案に頑張れたのか……それは、ビーンズの当時の先生たちが無限のスモールステップを踏んで伴走してくれたからだと思っています。
<他人事から始まる無限のスモールステップ>
最初は「他人事」でお手伝い
↓
手伝ったことを感謝される
↓
自分も、企画のメンバーとして参加する
↓
無限の伴走(ハサミでちょきちょきから横で一緒にやるイメージ)
↓
その内、自分で勝手にやり始める
↓
企画が失敗しそうになったら、無限のリカバーがあるので、失敗しようがない
↓
その内、だんだんと独り立ちする
↓
企画が成功する
↓
ほめられて、気持ちいい
↓
さらにやる
ここまでスモールステップを踏んで無限に伴走してもらったから、自分が少しずつ変化できたなと思っています。
そして、それまでに不登塾の時期も含め、待ってもらった時期もあったからだなと。
青春をやり切る前に「おい、進路どうするんだ!?」と詰められたり
不登塾のときに見捨てられたりしてたら、こうはならかっただろうなと思います。
自己分析で分かったこと
ビーンズでは、大学の総合選抜を含め、推薦入試対策では、「自己分析」から始めます。
ビーンズでは、元気になって進路に向き合えるようになった生徒には「とりあえず自己分析」
詳しくはコチラの記事もご覧ください。
私の自己分析では、進路を選択する原体験として自分の不登校時代に感じた経験を特に深ぼりました。
自己分析では、特に「自分が今まで何をしてきて、自分が今、何に興味があるのか」これを昔の記憶から掘り返し、文章にしていくことが大変でした。
なぜかというと、私、興味あることは広いのですが……「自信を持って興味がある!」と言えるものがなく、その自信のない興味で、大学を選択する勇気が出なかったからです。
当時の私にとって、「自信をもって興味がある」という定義は……
(決してそんなことを言ってくる人がいるわけではないのですが……。)
こうやって文字化すると、ちょっとしんどい思考ですよね 笑
仮に、ギターが一本、コードは一つしか弾けなくても「趣味はギター」って言ったっていいはずだし、安い古着しか買えなくても「趣味はファッション!」って言ってもいいはずで。
やはり当時は、自分の中に何かの”完璧主義”があったんだなぁと思います。
と、いきなりネガティブな話をしてしまいましたが、自己分析をしてポジティブな意味で驚いたこともありました。
(自分でも薄々気が付いていたけど)
・自分は「人の役に立つ」ことが好きだということ
・自分は人に頼まれたことをこなすことにやりがいを感じるということ
・自分は他人から感謝してもらうのが嬉しいということ
・感謝されるためなら企画から司会進行まで頑張れるということ
大学推薦入試対策の自己分析を通して
「こういうところが不安だったんだなぁ……」
「こういう自分の部分は、自分好きかも……」
「ああ、自分ってこういう面もあったんだぁ……」
と気づくことがたくさんありました。
この気づきは、今の大学での学び、そしてビーンズでの活動にも生きています。
大学推薦入試、自己分析と面接対策
大学の推薦入試対策で、一番苦労したところは、自己分析で出てきたエピソードのどれを面接で話すか決めることでした。
ビーンズでガクチカをたくさん作ったので、いったいどのエピソードを使えばいいのかと悩むようになったのです。(贅沢な悩みですね)
また、自己分析で出てきた自分の原体験と、志望学部や学問とのつながりを言葉化することにも苦労しました。
今、当時を過去のこととして思い返しても、かつての自分自身も含めた社会経験のない「悩める10代」がバシッと「これだ-!」と進路を決めるのは、物理的に無理なんじゃないかと思います。
「悩める10代」たちが進路決めができないことについてコチラの記事にまとめました。
ありがたいことに、私の場合、早い段階で「"社会福祉"だったら、燃えられるのではないか」という直感がありました。
ただ、そんな私であっても悩み続けます。なにしろ職業体験などがあったわけではないので、「本当に、本当に、本当なのかな……」と悩んだことを覚えています。
(チャレンジスクールの授業には、いろいろな職業体験もあるので、高校時代に利用していればよかったのですが……)
社会福祉に惹かれていく一方で、ビーンズでのガクチカづくりで経験した「イベント×デザイン」は楽しいし、ある程度、自分のセンスを信じられるところもありました。
長澤先生にビーンズ流、デザインのコツを学び(緑と灰色の、アレです 笑)、自分でも色々スライドをつくったり、画像を編集したりして、「多分、デザインなら、そこらへんの大人には負けないのでは……」と思うところまできました。
ですから「デザインを大学で学びたい!」という気持ちも確かにあったのです。
そもそも、デザインや社会福祉、どちらも確証を持てるような社会経験をしていないから、決定打がないのです……。
そんな中、時間をかけて自分の記憶を一つずつ棚卸しして、本当に膨大な文字量の自己分析をして、少しずつ
「自分の軸はこれだ」
「自分の今までの経験から、多分これは嫌いじゃない」
と、確信を持って語れるようになってきました。
自己分析が終わった頃には「自分の原体験から、社会福祉を学びたいんだ」という想いのこもった、大学推薦入試用の「エントリーシート(志願書)」が出来あがっていました。
そして、事前課題に取り掛かりました。が、後はカンタンです。今までのビーンズでの企画やデザインの経験が活き、サクサク作れました。
大学推薦入試の個別試験では、小論文と面接が多いのですが、ビーンズは先述の通り国語力を伸ばすことを大事にしているので、小論文対策はばっちりです。
そして、受験を左右する面接。ビーンズでは全く面接の経験がない、人前で話すのが苦手、ましてや大人相手だと固まってしまう……という生徒の指導を続けています。
ですので、ノウハウが溜まっているのですね。
しかも、この時の私は「挑戦期」になっていましたので、長澤先生からの面接についての正論フィードバックも耐えることができました。(「肚から声だせ」とかですね……)
「不安はあるし、もっと早くやればよかったと100万回くらい思うけど、やることはやった……」と、思えるくらいの仕上がりで、受験会場に向かいます。
猪狩怜恩(れおん)先生の物語:高校不登校、そして不登塾。逆転の大学推薦入試への道 まとめ
ここまで、お付き合いいただきありがとうございました。
中学~高校の不登校から、ビーンズとの出会い、大学受験へ向けて頑張ろうと思っても全く手がつかない「グルグル期」。そして「不登塾」……。
そこからビーンズで将来について「放言」を繰り返し、仲間と自分の恥部もふくめ「切腹」して、さらけ出せるような仲間を見つけ、「青春経験」を積むことができました。
そして、ビーンズにやってくる様々な大人たちと出会う中で、「もしかしたら社会に出ても面白いかも」と思えて、そして自己分析を始める……。
気づけば、ビーンズで言っている「成績アップに必要な4階構造」そのままの段階を踏んで、少しずつ「自分事」として進路を考え、自ら決めた進路へ向けて手を動かすことを「やってみよう」と思えるようになった…と思っています。
物凄く時間がかかりましたし、その間、親にもすごく心配をかけてしまいました。(あの時、親が色々な感情を押し殺して待ってもらえたからこそ、今の自分います。感謝してもしきれません)
(そして、自分も講師になったからこそ分かるのですが)当時の私を担当してくれたビーンズの先生たちも凄く不安にさせてしまったと思っています。
一方、時間をかけ、段階を踏むことで、あんな状態だった私も変化していけたという事実もあると思っています。
もし、どこかの段階が一つでも抜けていたら、自分は「自分事に向き合あう」「頑張ろう」と思えなかったかもしれません。
(ここら辺の詳しい話は、「シリーズ「なんで子どもが勉強しないのか」勉強する条件「成績UPに必要な4階構造」」の記事でお話ししていますので、興味のある方はご覧になってください)
さて。れおんの大学受験はどうなるのか? なにより大学入学後は大丈夫なのか……? 気になる続きは後編で……!