『学校に染まるな! バカとルールの無限増殖』の書評-「教育の向かうべき方向性」と「青春」
もくじ
『学校に染まるな! バカとルールの無限増殖』の書評-「教育の向かうべき方向性」と「青春」
本記事の目的
本記事では私、ビーンズ塾長の長澤が『学校に染まるな! バカとルールの無限増殖』(以下、『学校に染まるな!』もしくは本書)について、ビーンズ的にぜひ読者のみなさんと語り合いたい箇所(の一部)を紹介しています。
「書評」という設定で本記事を執筆したものの……
・『学校に染まるな!』の内容について(勝手かもしれない)解釈
・『学校に染まるな!』の内容に関連する長澤(ビーンズ)の意見
が多分に含まれております。
結果、純粋な書評ではなく「『学校に染まるな!』を読んで受けたインスピレーションから生まれたビーンズの考え」をまとめたものになっておりますことを最初にお断りしておきます。
おおたさんという巨人が書かれたものに、若輩者が補論を加えるという暴挙を何卒お許しください……
後述しますが、『学校に染まるな!』の価値は「教育全体の現在地とこれから向かうべき方向性を明らかにしていること」だと思います。
本記事では、著者のおおたさんが示された「現在地」から「向かうべき方角」に対して、
ビーンズが考える「現在地」から「向かうべき方角」へ歩みを進める方法を子ども・若者に関わる全ての方に向けて(ざっくりとではありますが)提案したいと考えています。
以下のような方に読んでいただけると、嬉しいです。
・『学校に染まるな!』をご覧になって、おおたさんが指し示してくださった方向性を理解した方
・『学校に染まるな!』の内容に共感したうえで、「今いる場所(現在地)から、どう動いたらいいんだ…」とお悩みになっている方
『学校に染まるな!』について
「だからいま私はこの本を書いています。小さなレジスタンスです。」
『学校に染まるな! バカとルールの無限増殖』 第四章 なぜ大人は髪型や服装にうるさいのか
個人の自由を大切にし、権威や体制に迎合しない…その意味で『学校に染まるな!』は真に「パンク」な書である…と私は思っています。
そして、本書は広く教育のこと、そして特に学校教育の在り方について語っています。
『学校に染まるな!』が伝えたい本当のメッセージは、本書を実際に手に取って、全部読んでから初めて理解できます。
また、本記事の内容も『学校に染まるな!』を読むことで初めて意味を持ちます。
もし、本記事を読んで興味を思った方は、ぜひ『学校に染まるな!』を実際にご覧いただくことをおすすめいたします。
著者 おおたとしまさ さんについて
おおたさん(中央)と
本書の価値「教育全体の現在地とこれから向かうべき方向性を明らかにしていること」
ここから、長澤が『学校に染まるな!』を読んで(勝手に)考えた本書の価値についてお話しします。
本書は、中高生向けの本です。
しかし大人こそ読むべきだと私は思います。
なぜなら、本書は以下2点を私たち大人へむけて明らかにしたからです。
・現代における子どもと若者への大人の関わり方の問題点
・これからの時代の(というか、いつの時代にも共通する)大人の子ども・若者への善い関わり方
まとめると、本書の価値は「教育全体の現在地とこれから向かうべき方向性を明らかにしていること」ではないかと考えております。
(なお、国語的にこのようなまとめ方をしたらゼロ点です。あくまで長澤の「メガネ」を通した解釈です。)
「教育全体の現在地とこれから向かうべき方向性を明らかにしていること」……あまりに大きなテーマです。
本来ならば新書一冊にまとめるなんて不可能だと思います。
それが、おおたさんの筆力によって、美しくまとめられています。
さらに、その大きなテーマにもかかわらず、中学生(中高生向けなんだからそりゃそうなんだけど)でも読めるような平易な文章だからスルスルと読めます。
さらにさらに、各章には、分かりやすい具体例が"これでもか"と、たっぷり詰め込まれています。
私は本書を読んで、以下のように感じました。
まず、おおたさんが問題としている教育(大人の子ども・若者への関わり方全般)の現在地とは
「目先のことに囚われて、視野狭窄に陥って、検討違いな束縛を生み出し、子ども・若者の可能性に蓋をしてしまっている状態」
であること。
(個人的に「せこい関わり」という言葉がぴったりな気がしています)
また、向かうべき方向性とは、
「時代が変わっても変わらない人間の幸せの条件を前提に、子ども・若者の可能性を蓋をしない状態」であると感じました。
(これまた私の勝手な考えですが、「自由とつながりの関わり」という言葉がぴったりな気がします)
教育の向かうべき2つの方向性
特に大事なのが、「向かうべき方向性」です。
ここから、本書の内容をもととして、私の大暴論をかまします!
人間は、
・自由になる
・他者と深くつながる
ために人生を歩んでいるとも言えるのではないでしょうか???
そして、教育の向かうべき2つの方向性とは、
子どもをより自由するため
他者と深くつながるため
そのための術を子どもたちへ伝える事ではないでしょうか。
『学校に染まるな!』でかなりの紙幅が割かれている「勉強」だって(本来は)今の世界の見方以外の見方を獲得し、より自由に生きられるようにやることです。
学校で教わる様々なことも、本来は、様々な社会的制約や生まれ持った制約から解き放たれ、自由になるためにあるのではないでしょうか。
(にも関わらず、子どもたちに、より「自由」になる術を伝えるべき大人たち自身が「目の前の流行り・目の前の評価基準・目の前の不安・目の前の競争」に囚われて、子どもたちの自由になれる可能性に蓋をしてしまっていることが課題なのだと思います)
さらに、人は、誰かから愛され、誰かを愛し、誰かと協力することで初めて幸せを感じます。
つまり、他者との「つながり」が人を幸せにします。
もちろん、どうしても苦手な他人や馬が合わない他人もいるでしょうから、つながりには相手によって濃淡があるでしょうし、つながり方も多様でしょう。
でも、そんな人たちとも、共通の土台・前提を見つけて、まずは「協力」という方法でつながることは可能です。
そういった相手に合わせた「つながり方」のヒントを提示すること、そして試行錯誤の機会を与えること。
それが大切だと思います。
子どもが他者とつながるために、大人が心がけること
では、子どもたちが「他者と深くつながる」ために、大人が心がけることとはなんでしょうか。
それは、大人が、子ども・若者がお互いに「つながり」を作ることの重要性を理解すること、そして、彼らがつながり合う経験(代表例は「青春」)の邪魔をしない姿勢だと思うのです。
もちろん、子ども・若者同士が適切に(=例えば誰かが誰かの人権・尊厳を踏みにじる方法で排除する…なんてことがないように)つながり合うために、最低限のルールを設けることや、背景の違う他人と協力する方法(建設的な議論の方法など)を教えることなども必要と思います。
しかし、現状を見る限り、子ども・若者同士がつながることを邪魔するような過度なルールや、目先のトラブル回避のみを目的とした雰囲気がつくられている場合が目につきます。
まさに、大人たちの子ども・若者への「せこい関わり」です。
子ども・若者にとって必要なものは、「自由」と「つながり」であり、この2つを我々大人の子ども・若者への関わり方の大方針のド真ん中にドーンと据えることが求められているな……と考えました。
我々のような教育者にも、保護者にも、教育行政に関わる政治家や官僚の皆さんにも、近所のおっちゃんやおばちゃんにも……
子どもの「泥だんご」を大人が徹底的に褒める
本章からは、『学校に染まるな!』において私が特に注目し、「具体的な歩み方」について補論したいなと思ったことについて書いていきます!
(一応、本記事の目的は、おおたさんが示してくださった、「現在地」から「向かうべきざっくりとした方向」に歩みを進める方法について、子ども・若者に関わる全ての方にざっくり提案するというものでした)
おおたさんは、これからの時代を生きる子どもたちにとって大切なものとして、「あえて言えば」という条件つきで、「自分にはない能力(機能)を持つひととチームになる力」を挙げています。
自分にはない他人の能力を活かすことで、より「自由」になれますし、チームになるということは「つながり」を作っているということですから、まさに「自由とつながり」という大事な条件を満たしています。
スペシャリティーについて
おおたさんは「自分にはない能力を持つ人とチームになる力」は、「スペシャリティー」と「コラボレーション力」の2つの要素に分けられると述べています。
私からは、1つ目の「スペシャリティー」および、「スペシャリティーの育み方」について述べていこうと思います。
スペシャリティーとは、「特技」「専門分野」のことで、これがないとそもそもチームには呼んでもらえません。
スペシャリティーと聞くと、
「医師や弁護士としての資格」
「皆が脱帽するような圧倒的なデザイン力」
といった大仰なものを想像してしまうかもしれません。
が、おおたさんは
「何気なく教科書に書いた落書きが面白い」
「先生にバレないようなナチュラルメイクがうまい」
といった「何時間でも没頭できて、かつ他人からすごいと言われるもの」が、その人にとってのスペシャリティーの芽になるといいます。
私は、この「スペシャリティー」について書かれた部分を読んで深く共感しました。
私個人の経験を振り返ってみても、「自分の得意分野はコレです!」と仲間や社会に対して言えたことが、私の自己肯定感を支える背骨になっています。
さらに、私の学友たち・ビーンズの生徒・ビーンズの大学生インターンたちを見ても、彼らの多くが、自分の自己肯定感の軸をつくるスペシャリティーを求めて、日々努力しています。
みんな自分のスペシャリティーを求めているし、スペシャリティーがあれば自己肯定感が上がる可能性が高まる。そう言えると思います。
「他者との比較」で自分のスペシャリティーに自信がもてなくなった若者たち
この流れで、最近の大学生(ビーンズに入ったばかりのボランティアやインターン生)たちを見ていて、気になることを紹介させてください。
それは、彼らが自分のスキルと自分が作ったモノ…
…つまり自分のスペシャリティー(もしくはスペシャリティーの芽)およびスペシャリティーの産物に、ほとんど自信を持てていないことです。
傍から見れば、(私から見て)「すごいじゃん! よくできている!」となるようなことでも、
「いや、隣の〇〇さんと比べたら自分は全く活躍できていません」
「私ごときの能力では、このチームにいても迷惑なんです」
と自己評価します。
彼らは決して謙遜で言っているのではありません。
彼らなりに真剣に自己評価して絞り出した言葉なのです。
ここで注目してほしいのは「隣の〇〇さんと比べたら」という箇所です。
彼らと深く話していくと必ず出てくるのが他者との比較です。
もちろん、比較自体に良い・悪いはありません。
ですが、比較が子ども・若者のエネルギーをグッと低下させ、立ち上がる気力さえ奪ってしまう場合もあることに、大人はもっと注目すべきだと思います。
「他者と比較することでエネルギーが奪われてしまう…」
このことは、子ども・若者たちも今までの痛みを伴う経験で学習しています。
他者と比較することで、傷ついた経験をたくさん持った彼らは、比較されるような場にそもそも行こうとしなくなります。
「自分が作ったものが不特定多数の目にさらされること」を忌避し、
果ては「自分の考えを表明すること」「お互いに意見交換する場」すら避けるようになります。
一方でそのアレルギーは「他者との比較」という価値基準を強く内面化しているからでもあるので、「誰かと比較されたうえで他者から評価されたい!」というあがくような強い気持ちも同時存在しています。
彼らは「自分(のスペシャリティー)は他人から必要とされている」という確信を持てていないので、自分のスペシャリティーへの自信も根本的に欠如しています。
自分のスペシャリティーへの自信がないまま、時至らば、将来の進路(志望業界や志望企業)について考えないといけないのです。
しんどいですよね……。
若者の「小さな成果物」を徹底的に褒める
では、スペシャリティーの芽を育てていくためにはどうすればいいでしょうか。
ここから私の推論なのですが、スペシャリティーが育つ上で最も重要なものは、「自分のスペシャリティーの芽への無根拠でゆるぎのない自信」だと思うのです。
そして、この無根拠でゆるぎない自信とは、「どんなに下手っぴでもいいから、自分が作ったものを徹底的に褒められた経験」によってのみしか得られないと考えます。
自分が作ったものを徹底的に褒められた経験量と自分が作ったものが評価されなかった経験量を比べたときに、前者が後者を圧倒している状態を常に作る
そのことで、無根拠でゆるぎのない自信が生まれ、多少の失敗にもへこたれなくなるのではないか
……というのが今の私(ビーンズ)の推測です。
かなり昔に、北欧のどこかの国(もしくはオランダだったかも…?)の小さな子どもたちが自分が描いた絵を親たちに発表している写真を見たことがあります。
私には、そのときの親たちの表情が忘れられません。
親たちは子どもの絵をあたかも世界的巨匠が描いた名画を見るかのような真剣な表情で子どもの発表に聞き入っているのです。
そして、そんな親たちに発表している小さな子どもの誇らしげな表情といったら……
もちろん子どもが描いた絵です。多分今あなたが思い描いた「あー、子どもの絵ね」という、そんな絵です。
ですが、親たちは子ども扱いせず「本気で」褒めているのです。
おそらく「うわ~ しゅごいね~ よく描けまちたね~~!」といった子どもだましの褒め方ではないはずです。
「この絵の~~なこだわりがいいな。」
「~~の部分の工夫が好きだな。」
といった具合に褒めているのでしょう。
「子ども若者が作ったものを、どんなに稚拙なものであったとしても、親(大人たち)が徹底的に褒める」
私は、この経験が大事なんだと思っています、
もちろん、大人たちの中には「いや~ ぶっちゃけ、ここがまだまだなんだよな~」という思いも生まれることでしょう。
しかし、それをおくびにも出さず、徹底的に子どもを大人扱いして褒めることが重要だと思うのです。
翻って見ると、先ほど例に出した、自信がない大学生たちは幼少期からのこのような「褒められ経験」が決定的に不足しているように思えます。
逆に、自分が作ったものを徹底的に褒められてきた経験が豊かな人は、自分が作ったものをどんどん皆の前に出します。
もちろん失敗もあるのですが、圧倒的な「褒められ経験」があるから、めげません。
「たまたま今回は上手くいかなかったな。次はもっとうまくやろう」
と思う人もいれば、
「僕が作ったものの良さを理解できないなんて… どうしたんだろう」
と、思う人もいます(笑)
どちらにしても大事なのは、失敗を(褒められ経験が少ない人と比べて)あまり苦とせずに、次の打席にすぐ立つことです。
打席に立ち続けることで、成功も得やすくるなるし、なにより経験量が増えるので自分のスペシャリティーが磨かれていきます。
ですので、保護者さまは、お子さんが今まさに目をキラキラさせて没頭しているモノがあれば、「ああ、よかったな。そっとしてあげよう。」と思うだけでなく、
子どもがつくった「小さな成果物」を徹底的に大人扱いで褒めてほしいのです。
より具体的には、子どもが没頭している間はそっとしておき、没頭タイムが終わって何かを完成させたら、すぐに駆け寄って、完成したものを細かく観察し、良いところを見つけ、徹底的に褒める…… そんなイメージです。
成果物はたった一個の泥だんごでもいいです。
子どもが没頭して作ったのであれば、一個の泥だんごにも子どものこだわりが詰まっているはずです。
例えば、サラサラの砂を表面にかけて磨き上げたとか、なるべく丸くなるように細心の注意を払って作ったとか……
そんな子どものこだわりポイントを一生懸命見つけて、褒めてあげると良いでしょう。
大人が予想したこだわりポイントと、その子にとっての本当のこだわりポイントが違っても良いと思います。
子どもにとって、大人が自分の成果物を本気で見てくれたということが大事ですから……
ここまで子どもの話をしました。
一方で、この話は自信がない大学生や若手社員をサポートするときにも大事なポイントになるのではと思っています。
自信がない大学生や若手社員をサポートされているポジションにいる方には、まずは「教育」を諦めて、彼らが「作ったものを徹底的に褒める」を実践してもらえるといいかもしれません……
自信がない彼らは幼少期から積み上げるべき褒められ経験が足りていないわけですから(今の若者は親や親以外の大人と接してきた量がそもそも少ないので、褒められ経験が足りていない人の方が多いと感じます)、
スペシャリティーを育むためには、今から「一人前の大人扱いし、かつ無条件に褒める」を愚直に実践するしかないのです。
とはいえ、大学生や若手社員は、小さな子どもとは違ってプライドもあり、また何かに挑戦する心理的ストッパーも大きくなっています。
状況が変わるまでには時間がかかるでしょう。
ですから、最初は「他人事」で我々大人の仕事にアドバイスをしてもらうだけのところから始め、そのアドバイスの内容を徹底的に褒めると良いかもしれません。
(ビーンズでは、経営陣が作る「パワーポイント資料」などのデザインに簡単にアドバイスしてもらうといったことなどから始めています)
そのうち、「あれ、自分の感性っていい感じ??」と思ってくれたら、自分で何かを作り出すでしょう。
そのときも、ガンガン褒めてあげれば、大学生や若手社員たちも、いつか無根拠でゆるぎない自信を持ち、あとは自分で自身のスペシャリティーを伸ばしてくれると思います。
大事なことなので、最後に念押しさせてください。
たしかに「的確でありつつも厳しいフィードバック」が効果的なタイミング・必要なタイミングはあります。
しかし、それが効果をもつのは、子ども・若者がスペシャリティーに対してゆるぎない自信を持ってくれた、その後です……!
「ゆるい青春」と「熱い青春」と「甘い青春」の必要性
『学校に染まるな!』では「青春」についても、まるまる一章を割いて説明されています。
そして、ビーンズメソッドの「4階構造」の考え方を引いて、青春の重要性が説明されてあります。
「ゆるい青春」~"ゆるくてあさい青春"と"ゆるくてふかい青春"
ビーンズでのゆるい青春の様子
ここから、ビーンズが考える「青春」について解説していきます。
ビーンズでは「青春」という言葉を、「同世代の複数人でおこなうポジティブな経験」とおおまかに定義しています。
そしてビーンズでは「青春」という概念を「ゆるい青春」「熱い青春」の二種類に大別しています。
まず「ゆるい青春」です。
「ゆるい青春」は、さらに細かく以下の二つに分類されます。
「ゆるくてあさい青春」:子ども同士が同じ時間を気楽に過ごしながら信頼関係を構築していく経験
「ゆるくてふかい青春」:子ども同士が「深い自己開示と相互理解の時間」を共有する経験
ビーンズでは、どちらも人間が他人と信頼関係を構築していく過程で必ず必要になる時間だとしています。
・放課後の教室で友達と無目的にダラダラと過ごす・文化祭の準備が終わらずに仲間の家で徹夜するのだが、ゲームしちゃう・部活での真剣な練習の後に、仲間とコンビニで買い食いしながら雑談する
ビーンズでは、生徒が「ゆるくてあさい青春」を適量経験することは、"ゆるくてふかい青春"と"熱い青春"を経験する端緒になると同時に、「ゆるくてあさい青春」には2つの限界があるともしています。
1つ目は、「そもそもゆるくてあさい青春」では「ありのまま欲求を深くは満たさない」という限界です。
自分の深い悩みや内面について開陳せずに、ただ遊ぶだけ・雑談するだけの関係は「気楽」かもしれませんが、その分、信頼関係があまり深まりません。
2つ目は、「ゆるくてあさい青春のやり過ぎが、"ゆるくてふかい青春"と、"熱い青春"を阻害する場合がある」という限界です。
ゆるくてあさい青春は「お互いがとりあえずこの時間を気楽に過ごせること」を大事にする人間関係によって成り立ちます。
つまり、自分や他人の深い内面についてのテーマを持ち出したり、他人と意見が対立しうるテーマを持ち出したりすると、「ゆるくてあさい青春」の気楽さを毀損してしまうことになります。
「軽く遊ぶだけ」「軽い内容の雑談するだけ」の友人とは、ときに深刻な進路の話などはしづらくなることもある…そんな状態を思い出してもらえると理解しやすいかもしれません。
人間にとって"ゆるくてあさい青春"は必要不可欠ですが、これのみをやり過ぎると、"ゆるくてふかい青春"や"熱い青春"に対して苦手意識を抱いてしまう場合があります。
ビーンズでは、この現象を「ゆるくてあさい青春への執着」(ゆるあさ執着)と呼んでいます。
面倒なのが、ゆるくてあさい青春への執着を正当化するロジックは簡単に作れて、しかも否定しにくいということです。
確かに、ゆるくてあさい青春は「当面の気楽な時間」を保障してくれます。
また、ゆるくてふかい青春と熱い青春は時としてストレスがかかるので、一見すると否定のしようがない主張に見えます。
例えば、ビーンズの生徒の誰かが「自分の深い内面」や「進路など自分事の悩み」について話そうとした瞬間に、ゆるあさ執着が強い別の人が、「まぁまぁ、今日はマジな話はやめとこうよ(笑)」といって別の話題にそらし、ゆるくてあさい青春の時間を固守しようとする反応を示すことは珍しくありません。
しかし、ゆるくてあさい青春の時間を固守し続けても、それだけでは「1~2時間の当面の気楽さ」は保障できますが、他人と自分の「深い自己開示と相互理解の時間」を共有する経験、そしてそこから生まれる相手との信頼関係、そして「ありのまま欲求」を満たすことはできません。
「ゆるくてふかい青春」の例と説明
次に「ゆるくてふかい青春」について説明します。
「ゆるくてふかい青春」とは例えば……
・放課後の教室で、自分たちの進路について仲間と真剣に語り合う
・オンラインで友達に自分の深い悩みを話す/相手の深い悩みを聞く
「ゆるくてふかい青春」に該当する経験とは、他人(同世代)と「深い自己開示と相互理解の時間」を共有する経験です。
夜遅くまでお互いの過去について開陳しあうなどの経験がこれに当たります。
これは、「ただ遊ぶだけ」「ただ趣味の話を共有するだけ」といった「ゆるくてあさい青春」とは経験の質・密度が明らかに違うものです。
おおたさんは、『学校に染まるな!』にてこう述べています。
どこからが親友か、私は次のように考えたらいいんじゃないかと思います。
どれだけ本音を言い合えるか。自分の未熟な部分をさらけ出せるか。
相手の痛いところを指摘しあえるか。それでもきっとわかってくれると信じられるか。
······その度合いによって、ただの知り合いから友達、親友とグラデーションになっているのではないかと思います。
わかりやすい優しさなんて、赤の他人でもできますからね。
当たらず障らずのうわべだけの知り合いがいくらいたって、人生の悦びは深まりません。
『学校に染まるな! バカとルールの無限増殖』 第六章 青春の舞台としての学校
まさにです! 親友との深い自己開示の時間こそが「ゆるくてふかい青春」だと思うのです。
「熱い青春」
「熱い青春」には熟議がつきもの
さて、「ゆるい青春」の次は、「熱い青春」です。
子どもたちにとって、以下のような時間を「熱い青春」として想定しています。
「熱い青春」の例
・文化祭の前日に、仲間と必死に助け合って徹夜で準備を進める
・部活で大会への出場を目指して、仲間と一緒に厳しい練習をこなす
・友達とトップランカーを目指して真剣にゲームをする
※部活でゴリゴリ頑張る中高生などは、3階と4階を同時に組み上げていっているとも捉えられます。
超一流の進学校ほど、生徒たちに学校行事に全力で取り組ませている理由はここにあるとビーンズでは考えています。
「熱い青春のイメージ」、それは「仲間とのマンモス狩り」です。
「熱い青春」のイメージ:仲間とのマンモス狩り
要は、(本人たちの主観の中で)デカいことに仲間と熱くチャレンジしているイメージです。
もっと詳しく「熱い青春」を説明・定義します。
「熱い青春」とは、「その人にとって、ギリギリできるorギリギリ受け入れられる範囲で、熱い青春3条件」を全て満たしているプロジェクトに参加する経験のことです。
熱い青春3条件
それでは、「熱い青春3条件」について説明します。
【創意工夫】目的と目標の創意工夫・手段の創意工夫
まず、「高負荷」について。
高負荷は2つの要素に分解できます。
1つ目の要素は「高いプレッシャー」です。
プレッシャーが高い状態とは、「絶対に成功させねばならない……!」という気負いを持たざるをえない状態のことです。
プレッシャーが高いということは、本人にとって、そのプロジェクトが重要なものであるということです。
本人にとって重要なプロジェクトでなければ、本気になれませんから、熱い青春たりえません。
2つ目の要素は「膨大なタスク量」です。
もしタスクが少ししかなければ、サクッと終わってしまいます。
サクッと終わってしまう経験では「熱い青春」とはいえません。
「このままだと、やらないといけないこと全部おわらないかも……」
というところまで追い込まれて初めて「熱い青春」となります。
次に、「協力」について。
これが「熱い青春」の最も重要な条件かもしれません。
他の2つの条件を満たしていても、協力が発生しなければ熱い青春にはなりません。
協力が必要になるとは、取り組むことが「自分1人では達成できない」という性質を帯びていることを指します。
「周りから自分を助けてもらわないといけないし、自分も周りを助ける必要がある」ということです。
なお、一緒に取り組む人同士・メンバー間で実力に明らかに差があると、このような状況は生まれにくいです。
例えば、経験を積んだ百戦錬磨の上司と部下では、協力の密度は下がってしまいます。
ですから、「同じくらいのレベルの同世代との協働」が最も協力の密度が高くなる傾向があると考えています。
(一人で挑む資格勉強などは、「協力」が発生しませんから、「熱い青春」にはなりません)
ただし、協力であればなんでも良いとは限りません。
例えば、以下のような事例を考えてみましょう。
完全に分業化された仕事を、チャットのやりとりのみで回し合っている大きなプロジェクトの例です。
「分業」という形での協力は行われていることになりますが、メンバー同士の絆は深まりませんので、これでは熱い青春にはなりません。
熱い青春を熱い青春たらしめる「協力」にはどうも条件があるようです。
その条件とは、以下の2つをどちらも満たしていることです。
- ・経験の共有(意義・作業・時間・視界・感情)
- ・かけがえのない貢献の相互承認
さて、ここまで「熱い青春3条件」の内容について説明してきました。
さきほどの「マンモス狩り」の場合…以下のように「熱い青春3条件」を満たしていると考えられます。
石器時代のとある集落の狩人たちの場合 あともう少しでやってくる冬までに、かなりの量の食料を準備しないと【高負荷(膨大なタスク量)】、集落全員が餓死してしまう【高負荷(プレッシャー)】。逆に、十分越冬出来る量の食料を準備できれば、来年から何人かの成長しつつある少年たちを狩りに連れて行けるようになり、食料収集量が増大し、集落を安定的に維持できるようになる 【高負荷(プレッシャー)】。狩人一人では十分な食料を確保できないので、複数名で協力して【協力】、今まで狩ったことのない巨大な獲物、マンモスを狩ることにした【高負荷】【(目標・目的の)創意工夫】。 マンモスを狩るために、武器の選定や役割分担や罠の場所について話し合い【(手段の)創意工夫】【協力】、
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「熱い青春」では、大きな目標にチームでコミットし達成していく途上で出会う高負荷なハードシングス(高いプレッシャー・膨大なタスク量)について仲間と熟議し、計画を立て、協力しあって乗り越える経験を得ます。
そこから、子どもたちが主観の中で以下の自信を得ることが重要だとしています。
自分はチームメンバーを助けることができた(今後も助けることができる)
自分はチームメンバーから助けてもらえた(今後も助けてもらえるだろう)
「甘い青春」
ここまで「ゆるい青春」と「熱い青春」について解説してきました。
そして、『学校に染まるな!』では新たに「甘い青春」という青春概念が、おおたさんから提示されています。
「恋に落ちた子は変化のスピードが早い」という、ビーンズの現場でも言われてきたことが、一言でまとめられました。
ビーンズでも今後「甘い青春」の概念を使っていこうと思います!
「甘い青春」の詳細も、ぜひ本書の内容をご覧いただきたいと思います。
青春の場づくりのむずかしさ
さて、ここからシリアスな話になります。
今からお伝えする内容は、実際に10代同士のつながりの場づくりをやっている教育関係者の方・企業で若手社員をサポートする場づくりをしている方向けです。
(もちろん保護者さまがご覧になっても何かしらのヒントはあるかもしれません…)
今までスポットライトがあまり当たってこなかっ青春の意義についておおたさんに熱弁いただきました……
次に議論の俎上に載せたいのは「青春の場づくりのむずかしさ」です。
青春の場を作る方法は至難の技です。
ゆるい青春にしても熱い青春にしても、ひとりでは経験できません。
仲間が必要です。
『学校に染まるな! バカとルールの無限増殖』 第六章 青春の舞台としての学校
ゆるい青春にして熱い青春にしても同世代の仲間が必要です。
なのですが、そもそも同世代との関わりに苦手意識を持っているのが、悩める10代であり、最近のデリケートな若手社員たちです。
増え続ける「悩める10代」「デリケートな若手」向けの青春の場づくりには常に困難さが立ちふさがります。
その困難さについて、『学校に染まるな!』の内容を交えながら説明したいと思います。
「比較」が子どもたちのエネルギーを減らす
既にスペシャリティーの章でお伝えしましたが、ビーンズでは悩める10代・デリケートな大学生・若手たちがエネルギーを減らしていく大きな要因に「他者との比較」があると考えています。
最近の大学生や若手社員(私も若いのですが…)の皆さんと話をすると、
「他の人の方が自分よりもロジカルシンキング力がある……」
「他の人の方が自分よりも行動力がある……」
などといった、分かりやすい物差しで他者と比較し、過剰に悩み、そしてエネルギーをすり減らしている場合が多いのです。
もちろん「他者との比較」は学校だけで発生するわけではありません。
徒競走でも、塾でも、習い事でも、受験でも他者との比較は発生します。
しかし、「他者との比較」で傷ついてしまう決定的な経験、
そして「他者との比較」がクセになってしまう要因は、学校でつくられる場合が多いのではないでしょうか。
『学校に染まるな!』ではこう表現されています。
サーキット場をイメージしてください。スタート地点にたくさんの車が並んでいます。
でもよく見てみると、そこに並んでいるのは、世界最速クラスのF1から、耐久レース 用のレーシングカー、フェラーリやポルシェのようなスポーツカー、一般的な自家用車、 四輪駆動車、トラック、ダンプカー、ブルドーザー、ショベルカー、農作業用のトラクターまで、多種多様です。これで周回のスピードを競って順位をつけたって、F1とトラクターのどちらが偉いかなんて比べられませんよね。
でもそれと同じことを、学校ではやっています。
学力というたったひとつのモノサシで子どもたちを序列化し、社会に出て行くときの労働力としての値札をつける機能が現在の学校にはあります。(中略)
F1ばっかりの社会では物が運べません。
トラクターばっかりの社会では、どこに行くにも時間がかかりすぎます。
ショベルカーは速く走る機能よりも掘る機能を高めてくれればいい。いろんな特性をもつ車がそれぞれに誇りをもって力を合わせる社会のほうがすてきですよね。人間だって、勉強にはやる気が出なくてもたとえば絵に関することならいくらでも努力できる遺伝的特性をもったひとがいます。
せっかく生まれが違って、伸ばせる才能も それぞれなのだから、その違いをどんどん活かせばいいじゃないですか。『学校に染まるな! バカとルールの無限増殖』 第三章 出来レースだらけの競争社会
長く引用してしまいましたが、この一節が全てを説明しています…
そもそも私たちは比較しあう必要はないんです。
それなのに、学校では子ども同士を比較する機会を多く設け、子どもたちに「他者との比較」を強く内面化させてしまいます。
学校は「ゆるい青春」も「熱い青春」も、そして「甘い青春」も得られるという子どもにとって希少な場所です。
その同じ場所で「他者との比較」を子どもに内面化させてしまい、子どもたちがエネルギーをすり減らしていくのは本当にもったいないことだと思います。
学校のルール
「他者との比較」…と、もう一つ学校が子どもたちにネガティブな影響を及ぼしてしまうこと。それが「過剰な社会化」です。
(おおたさんは「去勢」と表現されています)
一部の進学校(現場で思うのは、本当の名門校ではなく東大合格者数を誇ってるような中途半端な偏差値の学校が多い気がします)や、
伝統校だけど、その伝統が硬直化し、(元々あった学生自治の精神が失われて)体育会系のノリだけ残っている(笑)ような学校では厳しいルールや締め付けの文化を持つ傾向があります。
こちらの記事もご覧ください。
そして、厳しいルールや締め付けの文化によって10代たちが過剰に社会化されてしまうのです。
過剰に社会化されてしまうことで、特に影響を受けるのが先ほどから繰り返しお伝えしている「他者との比較」の内面化です。
「社会(=学校)側から与えられた価値基準で自分も他人も比較しなきゃ。そしてその価値基準の中で競争しなきゃ」
「社会(=学校)側から与えられた価値基準は自分では変えられないんだ……」
というマインドを10代の頃に学校で刷り込まれたことと、
子どもたちが自己受容できなくなり、自尊心と自己効力感を失い、最終的には青春が経験できなくなることには強い相関関係があると思われます。
ほぼ丸一日、狭い教室の中に同世代の未熟な男女が押し込められて逃げ場がないなんてことは、
人類が誕生してから初めて、この二〇〇年程度のあいだに始まったことです。
実社会には教室とかクラスとかいう概念はありませんから、もし近くに気の合う友達 や恋愛対象がいなければ、別のところにふらふらと出かけることができるんです。
ある集団の中でヒエラルキーができてしまい、自分の立ち位置に納得がいかなければ、別の集団に移籍することだってできます。
メンバーや空間が固定されていませんから、自分の好きなところに好きな仲間といればいいんです。
世界は広いんです。
くれぐれも、狭い教室の中だけが世界だと思わないでください。
教室の中が息苦しい、 生き苦しいと感じたら、中高生だってどんどん外に目を向けてください。
それだけで心持ちが変わるはずです。
『学校に染まるな! バカとルールの無限増殖』 第六章 青春の舞台としての学校
学校だけが10代にとって世界の全てでは決してありません。
学校は「ゆるい青春」も「熱い青春」も得られるという子どもにとって希少な場所だと申し上げました。
しかし、学校だけが「ゆるい青春」「熱い青春」を得られる場所であるわけがありません。
習い事であっても、塾であっても、(減ってきてはいるでしょうが)地域でも、そのチャンスはあります。
そして、今や「ゆるい青春」「熱い青春」をネット空間上で経験できるような仕組みも考えられています。
(詳しくは、おおたさんの別の著書『不登校でも学べる 学校に行きたくないと言えたとき』(集英社新書)をご覧ください)
ビーンズでも学校に行ってはいないが青春している生徒はたくさんいます。
もちろん色々な制約はありますが、大学進学後も「あのビーンズでの日々は楽しかった!今でも覚えている!」と言ってくれます。
そうして時期が来れば復学したり、進学したりしてビーンズの外で青春しだすのです。
……にも関わらず
「学校が私にとっての全てだ」「学校に適応できない私は価値がないんだ」
と思い込んでしまいやすい10代がいるのもまた事実です。
これは当の10代の心の持ちようだけに責任があるのではなく、社会も含めた共犯関係が作り上げている状態だと思います。
主権者意識の去勢と学校
学校のどこがイヤかって、いつどこで何をしてすごすかとか、どんな服装をどのように着こなすかとか、どんなヘアスタイルにするかとか、一般社会であれば日常的に選べ る自由がことごとく制限されていることですよね。しかもそれが当然だと思われている。
学校は社会の縮図だなんてよくいわれていますが、どこが社会の縮図なんでしょうか。
世の中は思い通りにならないものなんだよ、自分で選べると思ったら大間違いだよというあきらめのメンタリティーを刷り込むためのクソみたいな装置として学校があるように思えることすらあります。
そんなメンタリティーを刷り込まれたひとたちに民主主義なんて運営できません。
自分で選ぶことの喜び、難しさ、責任などを十分に経験できていないのですから。
誰かが 決めたルールに盲目的に従い、逆にルールが禁じていないことは何でもしていいんだと解釈します。
主体性を放棄して、思考停止に陥った大衆のできあがりです。
主権者教育どころか、主権者意識の去勢です。統治する側からしてみれば、最高に扱いやすい。
『学校に染まるな! バカとルールの無限増殖』 第四章 なぜ大人は髪型や服装にうるさいのか
先ほど、「学校の厳しいルールや締め付けの文化によって子どもたちが過剰に社会化し、彼らが他者と比較するスタンスを内面化してしまう」という話をしました。
おおたさんは、さらに学校の厳しいルールや締め付けの文化がもたらす弊害として「主権者意識の去勢」という表現であらわしています。
「主権者意識の去勢」
重く、強い言葉ですよね。
本来10代は「ゆるい青春」「熱い青春」の過程で、「自分たちのことは自分たちで熟議したうえで決める」という経験を積めるはずです。
例えば、文化祭の自分達のクラスの出し物をどうするか、そして出し物が劇だとしたら劇の台本の内容を皆でワイワイ議論しながら決めていく…… それくらいの熟議&決断で十分…と思うのです。
もちろん、熟議・決断には失敗がつきものです。そしてそれでいいと思うのです。
満を持して台本をつくった劇の内容があまりにアヴァンギャルド過ぎて、まったく観客からウケない……なんてことも(子どもたちに痛みはありつつも)良い学びです。
実際にビーンズの居場所でも「ビーンズ学級会」と称して、自分達でビーンズを盛り上げよう・イベント内容を決めようというムーブメントがありました。
生徒みんなで熟議するのですが、 これがまぁ大変でした(笑)
ディスカッションして物事を決めるという経験が少ないので、
自分の意見を言うばかりになってしまったり……
相手の意見に毎回辛辣なダメ出しをしてしまって場を凍り付かせたり……
「春にBBQに行くかどうかの議論を始めて、焼く肉の種類を決めるので冬を迎える。」と揶揄されるくらい、遅々として進まない議論にイライラする生徒もいましたし、
熟議の過程で、「あんなことを言われた」「こんなこと言ってしまった」と生徒が互いに傷つく瞬間もありました。
でも、今大学生になった彼らに話を聞くと「あの時間が一番楽しかった」「青春だった」というのです。
そして「あの瞬間(2019年)のビーンズは、自分たちが作ったよな」と誇らしげに言うのです。
生徒たちの"熟議"の様子
この「なんだかんだありながらも、皆で熟議して決めていくプロセスを皆で楽しむ」という文化はコロナ禍で一旦途絶えたものの、今はビーンズフリースペース(BFS)として再び盛り上がっています。
さて、『学校に染まるな!』でおおたさんが提示している問題は、そういった熟議の機会が現在の学校から少なくなっているのではないか。ということです。
生徒会活動は、まさに民主主義の実験場です。
第四章で校則について触れましたが、いざ校則を見直そうと思っても、新しいルール をつくる際には、生徒のなかにもさまざまな意見があることがわかります。
ちょろっと意見を言い合って、会議の最後に多数決をとれば結論は出せるのですが、そういう安易な多数決が生徒みんなの総意であるといえるかどうかには大いに疑問があります。
『学校に染まるな! バカとルールの無限増殖』 第六章 青春の舞台としての学校
イマドキの若者としての私の中学・高校での体感値、そしてビーンズの生徒たち、現役大学生のインターン生から聞く学校や生徒会のエピソードを俯瞰してみると、
今、多くの学校の生徒会は先生たちの指示を生徒たちに伝えるだけの上意下達機関になっていると考えています。
これは大きな課題だと思います。(もちろん、素晴らしい生徒会活動の伝統を守ってる学校も一部あります)
このあたりについては、まめファミリーメンバーの若手政治家も述べていますので、是非こちらの記事もをご覧ください。
翻って思うと、今「伝統校」と呼ばれる高校や大学の多くは60年代~70年代で「学生自治」を高らかに謳っていました。
とある都内の伝統校では、高校生が学校の自由化を目指すデモをおこない、放送室に立てこもりました。後輩たちが放送室に押し掛けると、その彼に一喝されて仲間になる…という逸話があります。
その高校生は、その後、世界的な音楽家になるのですが…(僕はその話をその音楽家の後輩にあたる方から直接聞く機会がありました)
自治どころか「革命」です。
子どもや若者たちが既存のルールや文化が足りないところ、新たなルールや文化を子どもたちが真剣に考え、大人にかわって新しい制度をつくるんだと意気込んでいた……そんな時代もあったんですね。
ちなみに…その高校は今も伝統校として存続しています。いわゆる文武両道の進学校です。
しかし、その高校の卒業生たちに聞くと、そういった「新たなルールや文化を子どもたちが真剣に考え、大人にかわって新しい制度をつくるんだ」といったムーブメントは全く受け継がれていないそうです。
自由や生徒の自治というものはなくなり、本来、学生の自由・自治というものに対ついになって存在していた「バンカラ文化」だけが残っている……
…正確にはバンカラの残りカスである、伝統校あるあるの入学早々の新入生の声出し練習、(特に一年生の4月~5月は)センパイには絶対服従という体育会系ノリが、残っているそうです。
青春初心者向けの場づくり6原則
ここまで、青春の場づくりのむずかしさの因子について語ってきました。
ここからは、理想の青春の場づくりのためにビーンズが考えている、「青春初心者向けの場づくり6原則」を紹介します。
長い説明になりますが、おおたさんが『学校に染まるな!』の中で紹介されている青春のイメージ、そして青春の重要さを徹底的に理解されたうえで、ご覧になると理解しやすいかなと思います!
①関係が多で疎であること
「関係が多である」とは、マンツーマンの関係だけではなく、その集団に入ると複数の関係の線が発生するということを指します。
また、関係の線の本数が多であるだけでなく、その集団の中の小集団も「多」様で「多」層的であるということも意味します。
「関係が疎である」とは、関係が薄いということを指します。
「関係が多で疎」な集団のイメージは、「なんとなく全員知り合いだけど、その集団の誰かとは一回も飲みに行ったことはないゆるい大規模な大学のサークル」です。
不登校の子どもたちが多くいる「いもいも」という塾の先生から聞いた話です。
ある中学生が、自分の言動が誰かを傷つけないか、誰かに嫌な思いをさせないかが 気になっちゃって、誰とも話せなくなってしまったと告白してくれたそうです。
友達同士のトラブルを回避するために、自分の発言が誰かを傷つける可能性はないか、 誰かを不快にする可能性はないか、十分に考慮してから発言しましょうというメッセー ジをくり返し投げかけられた結果、萎縮してしまったのです。
それではクラスで友達や親友なんてできなくて当然です。みんながただの知り合いのままになってしまいます。
『学校に染まるな! バカとルールの無限増殖』 第六章 青春の舞台としての学校
おおたさんのおっしゃる通りです。
「関係が多で疎である」状態だけでは、友達や親友はできません。
友達も親友も抜きに青春経験はできません。
ここからは状況改善のステップの議論に変わりますが、既に過剰社会化されて萎縮してしまった中学生・高校生に、いきなり熱くホンネで話そう!などと言っても響きません。
「熱く・ホンネで」話すことをやったことがないのでどうすればいいか分からないし、プレッシャーになります。
多で疎な関係には、仮に関係が毀損しても、感情面のダメージが(本人が耐えられないくらいには)大きくならないという利点が存在します。
物凄くドライに聞こえるかもしれませんが、関係が多だからこそ、集団内のある特定の個人との関係が毀損されても、替えが効きます。
さらに、関係が疎だからこそ、関係が毀損されたり自分が恥をかいても心理的ダメージは負いにくいです。
だって、そもそも関係が疎=ある程度どうでもいい相手なんですから(「旅の恥はかき捨て」的なイメージです)。
この、替えが効いてどうでもいい関係だからこそ、関係が毀損されたときのダメージが最小化されて、安心できるわけです。
②やってて楽しい何かがあること
やってても苦しいことしかないのであれば、その集団にいて心がケアされることはありませんよね……
ですから、やってて楽しいことを集団の中に準備することが必要なわけです。これは直感的に理解できると思いますので、説明はこのくらいにします。
③大義名分があること
集団の中で「自分が楽しい!」もしくは「自分の心が癒やされる!」だけだと、微妙に申し訳ない気持ちがしますよね。
「自分は集団の中でちょっとは役に立っているんだなあ」と思うことでなんとなくストレスフリーになりますよね。
悩める10代やデリケートな若手社員は
「自分が楽しむだけだと集団から排斥される」「集団の役に立ってないと自分の存在価値はない」
くらいまで思い詰めている場合があります。(そしてその割合は低くありません)
ビーンズメソッドの言葉を用いて、そこそこ難しく、そこそこ正確に説明します。
悩める10代やデリケートな若手社員は、ありのまま欲求のストッパーである、「ありのままの自分じゃダメだという思い」により、タテマエが強烈に発生します。
だからこそ、「あなたが集団に入って楽しいことをすることで、誰かのためになる=成果が出せる」という大義名分が必要なわけです。
ビーンズメソッドで、「表層ニーズ→深層ニーズ」とか「理由つき承認→存在承認」などと表現しているものがまさにこれにあたります。
④簡単にやれる何かがあること
いくら大義名分があっても、やることが簡単じゃなければ「私は成果を出せなかった」と傷ついてしまいます。
悩める10代やデリケートな若手社員は、達成できたときの楽しさがあったとしても、その楽しさを感じる前に上記の傷つきでいたたまれなくなって集団を去ってしまいます。
ですから、簡単に成果を出せる作業が必要なわけです。
⑤愛のファシリテーターが存在すること
愛のファシリテーターとは、「その人(or物or生き物)がいるだけで、パッと場が明るくなる存在」「思わず、可愛がりたくなるような存在」と一旦は理解してもらって問題ありません。
もう少し抽象的に説明すると、「無邪気に愛してくれて、無邪気に愛することを求めてくる存在」です。
無邪気さとは逆の「大人の計画的で深い配慮で愛してくれる存在」でもいいのですが、それは「作られた偽物の愛」という感じがして、悩める10代や若手社員の「純粋な愛を求める思い」を傷つけてしまうこともあります。
ですから、悩める10代や若手社員に関しては出来れば「無邪気さ」の要素が欲しいところです。
愛のファシリテーターの代表例はかわいい小さな子ども・めっちゃ気のきくスナックのママ(※)です。
場合によっては人間ではなく動植物が愛のファシリテーターになることも考えられます(アニマルセラピーなどが良い例です)。
※
めちゃんこどうでもいいですか、筆者は現時点で26ちゃいのおこちゃまなので、スナックに行ったことはありません! なので、想像で語ってます。
なお、私は最高の愛のファシリテーターは、「10歳の壁」を迎える前の小学校4年生までくらいの子どもであると考えています。
彼らと相対すると、向こうから無邪気に求めてきますから愛さざるをえませんし、向こうもこちらを無邪気に愛してくれる瞬間が多いからです。(※)
さらに話は脱線し、かつ論理も飛躍しますが、最高の愛のファシリテーターである小さな子どもが生きづらい社会・コミュニティで生きることは、当の子どもたちがしんどくなるにとどまらず、子ども以外の構成員の心をデリケートにし、最終的に社会全体の活力がなくなっていくのではないかと考えています。
ですから、なんとかして「子どもまんなかコミュニティ」を社会につくることができないか考えているところです。
※
もちろん、子どもがどうしても苦手な人はいますから、万能ではないと考えています。
⑥平等であること
集団の構成員がフラットであることが大事です。平等であることによって、関係の強度を下手に高めることを避けることができます。
平等といっても、2つの要素があります。「スキルの平等」と「権力の平等」です。
まず、スキルの平等について。
スキルが平等でないと、劣等感を刺激してしまい、悩める10代や若手社員の心をデリケートにしてしまいます。
ですから、スキル的にある程度同レベルの人をマッチングする必要があります。
次に、権力の平等について。
悩める10代や若手社員は集団の中での権力関係・上下関係に敏感です。
そして、同世代の中で権力の強い人と関係が強い人は誰かを考え悩みます。
せっかく①~⑤の関係を築いても権力が強い人に対して過度に関係の強度を上げようとしてしまったり、「〇〇さんのほうがリーダーと仲いいんだな(やっぱり、ここにも私の居場所はないんだな)」と比較してしまったりして、最終的には疲弊して自発的に集団から去ってしまうこともあります。
ですから、青春初心者向けの場においては、肩書やその集団へのコミット歴の長さがなるべく可視化されないような仕掛けが重要だと考えるのです。
まとめ 『学校に染まるな!』の価値とお伝えしたいこと
繰り返しになりますが、『学校に染まるな!』の価値は「教育全体の現在地とこれから向かうべき方向性を明らかにしていること」だと、勝手ながら感じています。
そして、これも勝手な私の解釈ですが、大人が子ども若者に対して「せこい関わり」をしてしまっている現在地から「自由とつながりの関わり」に向かうことが何よりも重要であると痛感しました。
しかし……
ぶっちゃけ、私だって、目の前の生徒たちや大学生たちに365日24時間「せこい関わり」を絶対にしていないか? と問われると、胸を張って「そうだ!」とは言い切れない瞬間もあります……。
また、今まで大人たちの「せこい関わり」に抑圧され、「せこい関わり」が見せる、硬直した世界しか知らない子ども・若者に、いきなり自由や他者との深いつながりを提供すると、彼らを混乱させ、かえって傷つけてしまう(最悪、彼らとの関係がなくなってしまう)こともありえます。
ですから、おおたさんが示してくださった現在地から向かうべき方向性に歩みをすすめるために、(もしかしたら)役立つかもしれないことを、ここまで書いてみました。
最後に……
(もう遅いのですが…)結果として、おおたさんという巨人が書かれたものを勝手に解釈し、そのうえで勝手に補論をするという、日本の教育史に名を残す暴挙をかましてしまいました……
おおたさん・おおたさんのファンの皆さまに、この場を借りてお詫び申し上げます……!!!
何度も繰り返しますが、おおたさんの子どもたちへの想いや、お考えは『学校に染まるな!』を通読して初めて理解できます。
そして、『学校に染まるな!』の内容を理解することで、この記事の内容もまた意味を持つようになります。
保護者さまに限らず、子どもになんらかの関わりを持つ方はぜひ、手に取っていただきたいです。