ビーンズ顧問弁護士・松井春樹 の原点と挑戦 ~人の役に立てる人になりたいともがいてきた人生~
もくじ
ビーンズ顧問弁護士・松井春樹 の原点と挑戦 ~人の役に立てる人になりたいともがいてきた人生~
※本記事は2023年6月に公開した内容を加筆し、再公開しています。
不登校・無気力などの課題を抱える「悩める10代」のための塾、学習支援塾ビーンズ塾長の長澤です。今日紹介するのは、ビーンズ顧問弁護士であり、まめファミリーメンバーでもある松井 春樹さんです!
※「まめファミリー」とは……
「悩める10代100万人」課題に立ち向かう学習支援塾ビーンズを応援する社会人応援団のこと。
「まめファミリー・ビーンズ顧問弁護士」としての松井さんのビーンズでの活躍はコチラの記事でご覧ください!
松井さんは「東大卒の弁護士」というゴツい肩書をもった人物ですが、あまり自分語りは得意ではないとのこと……。
そんな彼に"人生史"を語ってもらいます。
これまでの彼の半生を覚えている限り全て開陳してもらいました。
生まれてから小学校まで
大学入学までずっと京都市で過ごしました。
ちなみに、父も母も京都で生まれ育った人間です。
私が覚えている一番古い記憶は、幼稚園でサッカーをしてたら、窓をド派手に割ってしまって、こっぴどく叱られた記憶ですね……(笑)
でも、一番最初の記憶がサッカーにまつわるものであることは象徴的です。
中学時代まで、私が一番熱中したのがサッカーだったからです。
サッカーへの熱中は幼稚園時代から始まってました。
私が通っていた幼稚園は「子どもをひたすら遊ばせる」というコンセプトでしたので、毎日ひたすらサッカーができて楽しかったです(笑)
小学校は「京都教育大学附属京都小中学校」という小中一貫校に入学しました。
小学校低学年の間は、運動も勉強もできて、リレーの選手で、劇も毎回主役で、クラスの人気者で…… って感じだったので、かなり自己肯定感高めでした(笑)
しかも…… 小2までモテてたんです私!!!!(小2以降のことは聞かないでください。絶対に。)
ただ、相変わらず頭の中心にあったのはサッカーでした。
低学年のときは京都市東のサッカー選抜に選ばれていた記憶があります。
勉強もそこそこ出来ていたので、中学年からは中学受験も視野に入れて、塾に通っていました。
それでも、塾の授業とサッカーの京都市選抜のスケジュールがバッティングしたので、「俺はサッカーを続けたい!」とサッカーを選び、塾を辞めました。
まだ小学生とはいえ、かなり覚悟を決めて選んだ選択肢でした……
小さいころからサッカーに本気でした!
監督、チームメイトとの思い出は永遠です。(写真は小学生時代)
ただ、ここで初めての挫折を味わうことになります……!
サッカーに専念することを覚悟を持って選んだにも関わらず、京都府選抜に選ばれなかったんです……!
また、サッカー以外でも挫折がありました。
クラスで一番目立って、みんなの人気者……と思っていたのですが‥‥
なんと学級委員選挙で落選してしまったんです…… 「まさか、自分が落選……!」と呆然としたことを覚えています。
そんな苦い経験も味わいつつ、中学に進学することになります。
小学校時代の卒業アルバムには、「国会議員になる。」と書いています。
「サッカー選手にはなれないかもしれない」と冷静に感じながら、一方で「誰かのために貢献できる何者かになりたい」という思いは人一倍強かったのだと思います。
小学校の卒業アルバムには「国会議員になる。」と書きました
中学時代
中学生徒会。中2で立候補。そして生徒会長へ
生徒会の集合写真。基礎的なことを大事にしようということで「礎」をスローガンにしました。
まず頑張ったのは、生徒会活動です。
立候補者は中3のみというのが当たり前の生徒会役員選挙にも中2で立候補し、生徒会長に次ぐ全体2位の成績で当選しました。
当選後も、「2年生であっても、副会長として頑張りたい」と手を挙げました。
副会長は中3生が務めるという慣例があり、実現はしませんでしたが、一目おかれる存在になれたとは思います。
そして、中3時に生徒会長に選出されました。
生徒会長になってからは、生徒会長という外から華々しく見えるポストだからこそ、地道な作業を大事にすることをかなり意識していました。
他の役員達の時間を無駄に使わないようにするために、毎週の生徒会役員会議の前には念入りにレジュメを作っていました。
当時の先生から、「まめな仕事ができる」と褒められて、嬉しかったのを覚えています。
監督からの期待と愛を感じたサッカーの部活
中学校の部活最後の試合。最終的に京都市一位となったチームと2回戦で当たりました。善戦したものの、私がマンマークについた相手のエースに最後ヘディングで決められ0−1で敗退。悔しい思い出が残りました。
中学時代もサッカーの思い出は大きいです。
この時期のサッカー部での活動では、監督の先生から精神的に鍛えてもらいました。
当時の監督の先生は私にとって本当に恩師であり、今でも心から尊敬しています。
勉強も生徒会の活動もかなり頑張っていたので、大人から基本的には褒められてばかりいました。
しかし、サッカー部では監督が常に厳しく叱ってくれたんです。
監督の厳しい叱責のベースには、「松井に成長して欲しい!」という愛があることを感じられたので、しんどくなることはありませんでした。
今思うと本当にありがたかったですし、部活の日々は忘れることはないと思います。
タイで出来た現地の友人との絆は今でも続いています。
また、タイの人々と交流する学校のプログラムに参加したことも忘れられません。
今でも仲良くさせてもらっているタイ人の友達もできましたし、ここで国際交流の面白味をかなり感じました。
一方で、道路・衛生面・路上生活を送る方の多さ…… これまで私が京都で見てきた世界とそれ以外の世界の違いを肌身で感じ取りました。
「生まれながらに置かれた条件は人によって違う。それによる差はなるべく縮小すべきではないか」という問題意識がこの時に強く芽生えました。
高校時代
高校受験は私にとって初めての受験でした。中学の部活を夏に引退してから猛烈に勉強し、京都市立堀川高校という進学校に合格することができました。
緒方貞子さんの本と国連職員へのあこがれ
堀川高校への進学が決まった春休み、一冊の本を読みました。
『緒方貞子―難民支援の現場から』という本です。
緒方貞子 ―難民支援の現場から – 集英社新書 (shueisha.co.jp)
この本を読んで、クルド難民の命を守るため、アメリカ大統領他、各国の首脳との交渉をして、世界に貢献する緒方さん・国連職員の姿に憧れを覚えました。
そして、「将来、国連職員として難民問題に取り組みたい」と考えるようになりました。
この時、私は高校生活の目標を立てました。
「将来は難民問題を扱う国連職員になる。そのために東京大学教養学部国際関係論コースで学ぶ」という目標です。
当初は京都大学を目指すことも考えましたが、国際問題に関わる人、もの、情報のアクセスは東京大学の国際関係論コースが日本一ですし、関西を離れて視野を広げるためにも大学は東京に行きたいとも考えました。
高校生活の中で、この目標は一貫してもっていました。
高2の時の仙台訪問の帰りに東京に寄って、東大合格のために気合いを入れた時
高校生活を一言でまとめると、「上記目標の実現のためにストイックに自分を磨こうとしていた時期」だと思います。
中学3年の受験期が始まった時から現在まで私のLINEの一言は「ストイックであれ。」です。
高校の時も「ストイックであらねば」というのは常に自分に言い聞かせていましたし、周りにも言ってました。
高1の時の文化祭で、クラスでつくったTシャツにも「ストイックであれ。」の文言を採用してもらいました(笑)
クラスTシャツにもプリントされた「ストイックであれ。」というキャッチフレーズ
さらに、国連職員になるという目標の達成のために、日中韓のトップ層の高校生が集まる国際交流イベントに参加したり、(私の高校では、全員が学術論文を書いて、それを発表することになっていたので)難民問題をテーマに日本と韓国の難民制度を比較する論文を書いたりしていました。
「18歳選挙権」に絡めてTVに出演させていただきました。
また、東大受験に向けて圧倒的に勉強していました。
司法試験の勉強もそうですが、「まずは量をやる。呼吸をするように勉強する。」という方針で、可能な限り時間を捻出して勉強に打ち込んでいました。
サッカーの部活で学んだリーダーシップ
勉強以外でも「自分を成長させたい」という思いで様々な取組をしていました。
サッカー部に入ってキャプテンを務め、他にも学校の説明会スタッフの総責任者も務めました。
ここで痛感したのは、リーダーの難しさ・一人ひとりの声を聞く大切さです。
特にサッカー部のキャプテンとしての経験は、本当に学びになりました。
自分が将来サッカーの領域を仕事にすることはないと分かっていましたが、それでも「一生懸命勝ちにこだわる」姿勢を貫きました。
勝ちにこだわるため、準備には余念がありません。1分たりとも無駄にしないことを心がけていました。
他のチームや選抜チームの内容を参考にしたり、ウェブで調べたりしながら練習メニューを作り、毎日事前にノートに意図も含めてまとめていました。
毎日の練習後のスピーチで何を言うかも工夫していた記憶があります。
元々、スピーチをするのは気恥ずかしく思う方だったのですが、「一生懸命勝ちにこだわる」ためには、そうも言ってられません。
しかし…… ここで大きな挫折と学びが生まれます。
私の「効率性を徹底的に重視した圧倒的な努力を続け、絶対に試合で勝とう」というスタンスが他の部員の重荷になってしまったんです……
確かにチームは一つかもしれませんが、部員一人ひとりは多様です。様々な背景を持ってチームに所属し、思いもモチベーションもバラバラです。
恥ずかしい話ですが、私は「勝利に向けた効率的な努力」という単一的な主張を一方的にメンバー全員に押し付けてしまっていました。
そして、チームを「一つの塊」として見ていた自分に気づきました。
そこから、自分の押しつけを一旦なくし、部員一人ひとりと向き合い始めました。
そうすると、色んなことが分かってきます。
パッと見は頑張っていないようなメンバーも、本当は頑張りたいと思っていて、それでも頑張れない構造があったり……
練習内容やチームのマネジメントに不満をもっていたり……
そもそもサッカーではなく別のことを真剣に頑張っていて、サッカーの優先順位が低いだけだったりしました。
この経験から「一人ひとりの声に地道に耳を傾け続ける」ことの重要性を痛感しました。
チームは決して一つの塊ではなく、一人ひとりの生身の人間から構成されている。
そして、一人ひとりがそれまでの人生経験を背後に言動・行動を決めていることを強く実感しました。
なんか小学生の作文みたいになって恥ずかしいのですが(笑)、この教訓は今でも大事にしています。
基本、熱血の体育会系でしたが…… 色々と考えていたんだと思います。
大学時代 弁護士を志すきっかけ・長澤との出会い
猛勉強の甲斐あって受験は上手くいき、東京大学文科2類に現役で入学します。
大学入学後も「難民問題を扱う国連職員になりたい」という目標は一貫しており、大学1年は、国際交流系サークル・国際協力学生団体での活動に注力していました。
変わらず、サークルでサッカーも続けていました。朝7時-10時の週3回という、これまた変態的に本気なサークルで(笑)、常に忙しく、充実していたのを覚えています。
サッカーサークルの仲間たち
弁護士を志すきっかけ
ミャンマーでの私
そんな中、転機が訪れます。
夏休みに訪問したミャンマーで、弁護士であり東大教授でもある佐藤安信先生が法的なアプローチで難民の方々を救っている現場を目の当たりにしたんです。
法律というロジックで、人を助ける。
その現場を見たときに自分が目指すべきはここだと確信しました。
そこから、「弁護士になろう!」と決意したんです。
ここまでお話した通り、私は大学入学当初は弁護士になることは一切考えていませんでした。
また、私の所属も経済学部に進む学生が大半の文科2類でした。
しかし、もともと目指していた国連職員になるには専門性が必要であること。
佐藤先生が法律で難民を助ける現場を実際に見たこと。
自分自身の志向として制度・ルールのあり方に関心を持っていたこと……
こういう背景から、弁護士になるために司法試験突破を目指すことになります。
ここから、国際協力学生団体のリーダーも務めながら、大学在学中の司法試験突破を目指してめちゃくちゃ勉強する日々が始まりました。
大学2年の秋冬頃はもう本当に修行僧みたいな生活でしたね。
友達とも会わず、毎朝早く起きて、大学の図書館が閉館時間になるまでひたすら勉強する毎日でした。
ビーンズ塾長・長澤との出会い
ビーンズ塾長の長澤(中央)・同じくまめファミリーの弁護士友達(右)と一緒に。
やや余談かもしれませんが、ビーンズ塾長の長澤と仲良くなったのも大学2年の頃です。
長澤は私とは真逆で、「人生の裏街道を猛進する変な二浪の奴」って感じでした。同じクラスでしたが、授業をまともに受けているのなんか見たことなかったですね(笑)
1年生の頃は正直、「あいつは一体なんなんだ……」と思っていました(笑)
しかし、2年生になってから、長澤も閉館時間まで図書館に残ることが多かったので、いつの間にか毎日一緒に晩飯を食うようになったんです。
ちなみに、長澤が閉館時間まで図書館に残っていたのは、大学の勉強のためではありません(笑)
哲学とか歴史の本を読んだり、ダラダラ映画を見たりしていることが多かったですね(笑) 当時は学生講師として関わっていたビーンズでの活動にもまだ本気を出していなかった頃なので、かなり暇だったようです。
ビーンズ塾長の長澤とはいつもこんな感じで話しています。
閉館時間をむかえ、図書館を出た後、長澤と大学のキャンパスのベンチに座って、人生の世知辛さとか、より良い社会とは何かについて、夜空の下、青臭く語ってましたね。
たまに、喧嘩と言っても差し支えない激論を交わすこともありましたが……(笑)
司法試験合格後
弁護士として
さて、努力の甲斐あって大学3年で予備試験・大学4年で司法試験に合格し、大学卒業後からすぐに司法修習生として大阪・京都で活動を開始しました。
司法試験の勉強を始めた時は、弁護士資格は国連職員になるためのステップとして考えていました。
しかし、勉強を進めるにつれ、法律事務所や、ロビイング会社のインターンなどで、ルールの専門性を武器に様々な制度設計に関わっている弁護士の方々に接する機会を得ました。
もともと制度のあり方に関心があり、制度から日本を活気づけたいという思いがあったことから、弁護士として官民で連携したルールメイクに関わりたいと考えるようになりました。
今は新たな課題設定で社会を変えているスタートアップ、そして大学から関わってきたビジネスと人権の分野を中心に、スタートアップ、ビジネスと人権、観光分野のロビイングにも関わっています。
ビーンズの顧問弁護士の活動も、その延長にあります。
挑戦。~政治の道へ~
ここで、唐突ですが、私が今まさに行っている挑戦についてお話しさせてください。
既にご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、私の地元、京都4区から「日本維新の会」の一員として政治の世界に挑戦することになりました。
・地盤もカンバンも(もちろんお金も)ない中、政治の世界に挑戦しようと思ったのかについて
・政治の世界で成し遂げたいことについて
想いを込めてお話ししました。是非ご覧ください!
私の演説の様子
以下、演説の一部を文字起こしを読みやすく修正したものです。是非、ご覧ください!
弁護士として活動する中で、「日本と京都の閉塞感を打破したい」、「日本には活気が必要だ」と考えるようになりました。
私は「企業法務」に関わってきたのですが、これは、既にある「法律」を解釈し企業に法律を守ってもらう仕事です。
しかし、今の停滞する日本の状況を打破するためには、弁護士としてだけの活動には限界があると強く感じるようになりました。
最近は日本のGDPがついに世界3位から4位へ転落するといった報道もありました。
このような状況を打破するためには、既にある「法律」「制度」自体を変えなければならない。「今ある法律を解釈する側」から、
「法律を作る側へ道を作る」政治・国政の舞台で勝負したい
と思い、弁護士から政治(国政)の世界への挑戦を決意しました。若いかもしれませんが、あえて遠回りする必要はないなと思ったんです。
どうせやるなら、正面突破でこの日本の閉塞感を打破したいと思ったのです。
では、政治の世界で私が実現したいことは何か。
それはなんといっても教育の無償化です。
今の日本の大きな課題は、また閉塞感を作っている大きな原因は少子化にあると考えます。
今から50年前、1973年は1年間で生まれる子どもの数は209万人でしたが、今何人だと思いますか?
2022年はなんと「77万人」まで減りました。
新たに生まれる子どもの数は「3分の1」まで減ってしまったのです。
「人」がもの・サービスを作り、「人」がもの・サービスを消費する。
「人」が増えないことには国・地域の成長はありません。
少子化に真っ直ぐに向き合うことが日本の活気ある未来のために必要不可欠です。
この問題に対して、教育の無償化をまず達成すべきだと考えます。
義務教育である小中はもちろん、高校も大学も無償で通える社会を作るんです。
そして、教育の無償化は、政治が決断するだけで実現可能です。
子どもを育てることに国が全て責任を持つ社会を作ることこそが真の少子化対策だと考えます。私立高校、公立高校の所得制限のない無償化は大阪で実現しました。
大学も大阪市立大学と府立大学が一緒になった大阪公立大学を無償にしました。
全国3位の人口を誇る大阪で実現したんです。
大阪で実現したことを、全国に広げるだけ。
財源も高校の教育費、私立公立問わず、所得も問わず無償化を全ての高校生に対して実現するのにかかる費用は6000億円。
大学については国公立大学、全ての大学生に対して無償にするのにかかる費用は4300億円。
今話題となっている所得税の4万円の減税、非課税世帯への7万円の追加給付。
このばら撒きを実施するのに捻出される費用は3兆円半ば。
あの費用の6分の1を教育費に充てれば高校の無償化が実現します。
3分の1を充てれば大学の無償化が実現します。予算を決めるのも政治。
政治が決断すれば実現できるんです。
政治が覚悟を持てるかのみなのです。
だからこそ、教育の無償化。
これを私は国政で実現したいと考えています。
この投資は若者のためだけではないです。
教育の無償化で現役世代を元気にすること、次の世代に投資すること、これが先輩世代をしっかり支えることになるんです。
教育の無償化で、現役世代を元気に、そして、先輩世代を支える持続可能で活気溢れる社会を私は作りたいです。
さいごに
ビーンズ塾長の長澤(中央)・同じくまめファミリーで外コンで活躍中のビーンズ戦略顧問の濱崎(右)と一緒に
いかがでしたでしょうか?
これで、ビーンズの関係者の皆さんから、「そういえば松井さんって何されてる方なんでしたっけ?」と言われることも減るかなと思います(笑)
とはいえ、「松井の人生やキャリアについては分かったけど、政治の世界で具体的に何がしたいのかな???」と思われた方もいらっしゃるかもしれません……。
そちらに関しては別記事で詳しくお話しできればと思います。是非お楽しみに!